「罪ちゃん」

たとえば同性愛や広義の人間愛のみが許される世界に、この世界がなったとしたら、ヘテロセクシャルが人間の営みにそぐわない時代が、そんな時代が訪れたとしたら、僕が一人の女性を思っていたという体験にしてみたところで、旧時代のヘテロセクシャルと切り捨てられ、レッテルを貼られ、意味を書き替えられてしまうと思う。湿った男女の交わりは遍く「黄昏流星群」と見なされ、軽蔑される。僕の体験はといえば、湿っても交わってもいない、宙ぶらりんになって傍に居たり居なかったり、お互いがお互いを感知していたりしていなかったり、そういった曖昧な時間の連なりでしかなかったけれど、過ぎ去った時間の彼方から顧みれば「黄昏流星群」の外れ回、おそらく締め切りに追われたであろう弘兼憲史が手癖で書いた一つの短編でしかない。

 

Sと出会った時、僕の体は、女性と性的接触を行うことが出来ない危機に瀕していた。つまり、性器の突端から膿がじくじくと溢れ、痛々しく腫れていた。たとえば読んで字の如くの登場人物が現れる毛じらみや、西洋医学的なカタカナの並びで表記されるクラミジアと違い、しとしとと、ぽつりぽつりと膿を垂らす僕の淋病は、ごく日本的な日陰の営み、逢瀬(おうせ)や逢引(あいびき)のイメージを孕み、情緒を伴っている。ぽつりぽつりと雨音だけが聞こえている新宿の日陰で、僕は出会ったのだった。奇妙なヘテロセクシャル体験の同伴者に、未来の感情の矛先に。きっと情緒的な細菌を有していたから、Sに情緒的な思いを抱いてしまったのだと思う。螺旋状のDNA構造のように決して交わらない二人の時間軸は、ともすればすれ違いの愛情を想起させるけれど、何のことは無く、僕たち二人の間には、過去においても現在においても何ら繋がりがなかったというだけで、僕は彼女の衣擦れの音が過ぎ去るのを間近で聞いていたのみだった。

 

罪ちゃんは、僕とSの間に何らかの幕切れめいたものが見えた日に、ふらりと現れた。ひどく酔っていて、飲み歩いて歩き続けて、Sが店番をする店に辿り着いたのだった。客が僕だけの時は、Sはキッチンを出て、カウンターで隣り合わせて僕と飲む。その晩もそうだった。ひそひそと意味ありげに、朝を待って話していたのだった。ひそひそとした言葉に、意味を含めていた。たとえばジナイーダを囲むルーシンが、彼女と二人きりになったとしたら、こういった卑怯なやり口で、自尊心を暗く満たしたと思う。Sと僕の間に、座標軸上の連綿はあったとしても、意味であったり関係であったりといったものは、存在しないのだ。罪ちゃんは、神が遣わした動物のように、空虚な二人の空間を踏み潰し、さわやかに嚙み砕いた。

 

転職先が見つかった祝いにと飲み始めたら、統制がとれなくなってしまった、次に会うことがあったとしてもこの記憶はない、と罪ちゃんは話していた。滅多に飲み歩くことはない、規則正しく毎日を生きて、たまに箍が外れると、こうして前後不覚になるのが、この罪ちゃんの生活なのだった。「罪を重ねるから、罪ちゃんと呼ばれているんです、だから罪ちゃんと呼んでください」、言うなりカウンターに顔を突っ伏した。Sと僕は顔を見合わせた。一時間前に閉めるはずの店だった。Sは旅行へ行く、店を閉めたら飛行機に乗って、沖縄へ向かうのだった。二人旅行だった。旅の相手のことは僕も知っていた。Sは、店を閉めたがっていた。

 

「伊勢海老のぬいぐるみを昔大事にしてたんです、でも妹に捨てられちゃって。妹が私の家を片付けに来て、食べかけのカップラーメンと一緒に、ごみ袋に捨てちゃったんです。こんな物いらないって。こんな物があるから、お姉ちゃんはダメになるんだって。人生で一番悲しかったです。本当に悲しかった。10年付き合った彼氏と別れた時より、悲しい出来事でした」

 

制御の取れなくなった罪ちゃんが、よく分からない思い出話を語り始めた、突っ伏したまま。

 

「ああ確かに! 絶対に元に戻らないからね、人間関係と違って。伊勢海老は絶対に戻らない、だから悲しいのは分かるよ」

「そうなんです! そうなんですよ」

「いや実際そうなんだよ。人生で大切な物って、伊勢海老のぬいぐるみなんだよ、それだけなんだ。本当に信頼したり、心から愛したり、失って悲しんだりできるものって。だから、罪ちゃんの言ってることは分かるんだよ」

「そうなんです、思い出したら泣けてきました。本当に、今でも悲しくて、心に伊勢海老の形の穴が空いてる感じなんです」

「わかるよ」

「お兄さん・・・もしかして良い人ですね」

「そんなことないよ」

「良い人ですよ、こんな酔っ払いに優しくしてくれて」

罪ちゃんがむくりと起き上がって、僕を見た。酔っているようには見えなかった。

「罪ちゃん、もう少し休む? 店は閉めるみたいだけど」

「立てます、すみません。もう閉めるんですね。大丈夫ですよ、立てます」

 

罪ちゃんの分も、僕が払った。行く宛てが無いというから、付き添ってどこまでも行くことにした。Sは店の外まで出て、僕たち二人を見送った。

 

「気をつけてね」

 

湿った排水の言葉で、Sは喋った。

 

「そっちこそ、飛行機乗り遅れないように」

 

僕も淋病の言葉で、紛れもなく滴っていた。

 

「ありがとう、今日。来てくれて」

「なんだよ、改まって」

 

Sはなぜか泣きそうな顔をして、僕を見ていた。Sの歪んだ視界が、僕の目に伝わって、僕の視界もなんだか歪んでいた。歪んだまま、立ち尽くしていた。罪ちゃんは、道端の自転車を倒しながら、幽霊みたいに歩き進んでいた。

 

朝の歌舞伎町は、ウイルスの流行が無かった世界線のように、有象無象の悪の概念がうろうろと行き来していた。これからどこへ向かおう。Sが沖縄へ行くなら、僕も罪ちゃんとどこかへ行かなければならなかった。

 

「見てよ、虹が出てる」

 

罪ちゃんが指で示した方向に、本当に、歌舞伎町のビルの隙間に、虹がかかっていた。日本人の歴史的・生物学的な結末として、七色の色素で構成される気象現象。今まで、美しいと思ったことはなかった。それはただの色で、原因に対しての結果だった。でも、罪ちゃんが見つけた虹は、その瞬間は、奇跡としか思えないような、この世に神様がいて、神様が作ったとしか思えないような、美しい何かだった。二人で顔を見合わせて笑った。本当に美しくて、笑うしかなかった。

 

吐瀉物のにおいと、倫理の欠如と、虹と、セックスと、神様が入り混じって醜悪なビル群を、朝へと、未来へと押し流していた。夏が終わろうとしていた。