おかえりブリュノ

聖典」とも呼ぶべき書籍が、誰しも一つや二つは有ると思う。僕にとってそれはミシェル・ウエルベックの『素粒子』で、それまではクラシカルな意味の非モテに属していた僕が、『素粒子』を読んだことによって「ウエルベック的な含みを持った」非モテにダウンコンバートした。もう悩む必要はないのだった。たとえ幼馴染の美少女がカルト組織に取り込まれてセックス中毒になったとしても、ウエルベックを経由しているから「人類全体の衰退」という大局的な視野に立つことができて、相対化して冷静に対処できるのだった。

 

素粒子』の中でも好きな一節がある。理想のセックスパートナーと出逢って一瞬の希望を見出した主人公の中年男・ブリュノが、やがて挫折して精神も減衰し、かつて過ごした精神病院に舞い戻ってくるのだった。

 

"彼は車を出し、高速道路に入った。アントニーの出口から出てヴォーアラン方向に折れた。文部省の精神科クリニックはヴェリエール=ル=ビュイソンから少し離れたところ、ヴェリエールの森のすぐ横にあった。その森の公園はよく覚えていた。ヴィクトール=コンシデラン通りに駐車し、クリニックの柵までの数メートルを歩いていった。受付の看護人は顔見知りだった。彼は言った。「戻ってきました。」”

 

 

 

インターネットにおける非モテは絶滅してしまった。非モテを背負って立っていたテキストサイトが滅びて久しい。無気力の旗印を掲げて異彩を放っていた2ちゃんねるのモテない男性板も過疎地と化した。ゆっくりと着実に、終わったコンテンツになってしまった。今はもう、どこを探しても非モテ以後の非モテ、童貞以後の童貞しかいない。ネットの世代交代と、性志向の多様性が浸透してきた(あくまでネットに限っては)のが主な要因だと思う。セックス階級闘争の敗者であったとしても、ヘテロセクシャルに属している限りはマジョリティーに換算される。遺伝子を残すことに消極的な態度を取ったとしても、それは見かけ上の姿はセクシャルマイノリティーの形状になっている。男には閉経が無いから、非モテ男は自身の生物学上の死に気づくことは無いのだ、この先のインターネットに関しては。残されているのは死後の生活であり、かつて非モテであった存在はそれを享受することが可能になった、自身の死に気づくこともなく。

 

 

最近、2ちゃんねるに出戻りしている。人が居ないから、会心の長文レスをしたためたとしても何の反応も返ってこない。ただ少しばかりの安堵感を、馴染みの精神病院に帰ってきたような、挫折の味がする安堵感を味わいたくてそこに居るのだった。おなじみの景色、ヴェリエールの森のすぐ横。