10年卓上日誌

10年前、童貞を喪失した。相手は堀之内の高級ソープ嬢だった。この世には、テーマパークの各種アトラクションを順路通りにこなしていく人間がいて、一方では、入口で手をこまねいて初めの一歩を踏み出せない人間がいる。流れに乗れなかったという焦りを、ステップアップをすることが出来た側の人間に、正しく伝えることは難しい。だって平気な顔をして「もっと努力すれば良いのに」だとか「もっと頑張らないと」とか、出来ない人間に向かって言えるような人たちに、人生の時計の針を進められないという恐怖感を言語化して伝達できるとは到底思えないから。

 

童貞に限ったことではない。例えば、就業経験の無い実家暮らしの中年にしてみても同じこと。マッチョな視界で物を見ているような人たちには分からない、好き好んでレールから外れる人間なんて居ないということが。進むべき道を見失う、人生のレールから外れてしまう、というのは一種の恐怖体験であって、これを稲川淳二が語ったとしても違和感が無いに違いない。悪夢というのは、ダラダラとした日常の中に存在する。

 

高級ソープの門を叩いたのは、ハロウィンの季節だった。日曜日だった。堀之内までの道すがら、銀柳街仮装行列に行き会ったのを覚えている。当時はコロナなんて無かったから、パレードなんて騒いで当然のはずだったのに(というか、ハロウィンってそういうものだ)、どうしてか無口な行列だった。厳かに、黙々と、仮装した人たちが歩いていた。あれは一体、どういうことだったんだろう。行列に道を塞がれて、僕も立ち尽くしていた。

 

やっと人生の時計を針を進められる。そう思ったら、人生を取り戻したいという欲望が次第に湧いてきた。これからは、遅れを取り戻すように人生に復讐するのだった。もうソープランドに予約をして、童貞喪失の確定演出が出ている、あとは時が経つのをただ待てばいいという状態。その瞬間が待ち遠しくて、川崎競馬場の外周をぐるぐる歩き続けた。多摩川に架かる橋を、何度も往復した。東京へ、川崎へ、行ったり来たり。多摩川はその日、蒼かった。青ではない、「蒼」という色は、きっと童貞の目の結晶体にしか現れない、幼年期の終わりを告げる色だったと思う。

 

 

 

「もう34でしょ? まあ若いって言ったら若いけどさ、そろそろ先のことも考えないとまずいんじゃない?」

 

「まあ、そうですよね」

 

「3年後どうしてるかとか、考えないといけない時期に来てると思うよ。今のままじゃヤバいよ」

 

スーファミのやり込みプレイングの成果を、佐山氏に滔々と語ったら、現実の言葉で現実に引き戻された。まあ確かにね、と言葉の意味に納得はする。だけど、未来設計なんて、元より備わっていない機能なのだった。僕は、大人になれなかった、体ばかり衰退しただけの子どもだった。未来を作れるのは大人だけだ。描いた未来を実現するなどという高等テクニックは、今を積み重ねることしかできない子どもには、話が見えないというか想像もつかないことだった。

 

時間は円環ではないが、直線でもない。今の「先」に未来はないし、今の「前」に過去はないのだった。だからコツさえ掴めば、タイムスリップだってできる。童貞喪失の相手がどうしてるかと気になって、源氏名を調べてみたらまだ店に在籍していた。しかも、あの時のまま、同じ年齢だった。線として時間を考えてはいけない、何故ならソープ嬢が容易にタイムスリップするのがこの世界なのだ。10年前の「先」に僕らはいないのだった。同じように、今の「先」に10年後はない。

 

人生も、セックスも、取り戻せなかった。女のあそこは、いつだって濡れた靴のバリエーションのようなにおいがした。澱んでいて、暗かった。多摩川のように流れることができなかった。流れることができない人間は、点在するしかない。円山町のホテヘル嬢の前に、函館の太った人妻の前に、徳島のマッサージ師の前に、三鷹の歯科衛生士の前に、僕は点在した。何が過去なのかもう分からない。「今」「隣に」「他人が」「いる」というだけ。「今」「他人の」「性器を」「舐めている」というだけ。過去を振り返るというのは、一体何のことだろう。首を動かさずに、じっと暗闇に息をひそめて、それぞれの「今」を思い出すことができるのに。

 

 

 

「深く物事を考える時は、高いところに登ってみるといい」そう教えてくれたのは、大学時代の数学の教授だった。ユークリッド幾何学を、にやにやと楽しそうに説明する変人だった。恩師というような存在ではない、講義を受けるだけの関係。そして、教えてくれたライフハックを、なぜだか分からないけど、忠実に守り続けるだけの関係。人生が停滞したときは教授のことを思い出して、必ず高いところに登るようにしている。今日もそうだった。

 

三軒茶屋キャロットタワー展望室、地上26階。思ったより高かった。夕日の逆光に照らされたパノラマを、人生のセンスが無さそうなおばさんが一眼レフで夢中になって撮っていた。広がっているのは人畜無害な世田谷の街並みのはずなのに、逆光のせいなのか、それともジオラマというもの自体が悪趣味なせいなのか、ゴッサムシティのような犯罪都市に見えてくる。

 

「これからどうしよう」

 

体裁を整えるように問いを立ててみたけど、無意味だと分かっていた。そんなことは考えなくても、答えは出ていた。だって道を踏み外すことが目的で、道を踏み外したから。好き好んでレールを外れたから。目的と切り離せない生活を、ずっとしているのだから。

 

 

展望台を降りて、本屋で手帳を買ってみた。「10年卓上日誌」という、なんと2031年までの予定が書ける手帳(というか、持ち運びができないくらい分厚いので、名前の通り日誌)。タイムスリップしなければ、10年後は44歳になっている。