衰退、のち

平面の女を好きになる男がいる。21世紀という時代に、厄介な現実の問題に対する一つの反応として、絵を好きになる男が生まれた。一人の女が、絵の女がいるから、好きだという感情が生まれる、それは受動的な心の働きではあるけれど、それは何も平面の女に限ったことではない。桜もポピーも紫陽花も、咲くから好かれるのであって、感情より先に花が来るのだった。利根川も荒川も流れるから好かれるのであって、感情より先に川が来るのだった。受動する反応するいつも、そこに確かに何かが誰かがいる限りは。

 

平面ではない女を好きになる男がいる。生身の、と表現されうる誰かを。心を持った自分以外の誰かを。何に価値を置くか、何に重きを置くかと問いを立てるのは、的外れで意味がない。相対性は、零れ落ちる時間を掬うことができない。誰かが、あなたが、相手が、きみが、私と、自分と、いて、希望みたいなものが、あるいは絶望みたいなものが、二人の間に横たわり、一瞬の間に過ぎ去った。受動でも反応でもない、生きた人と人の間にはピリピリと、あるいはゆるゆると、ダラダラと、キリリハララと、現象が起きては消え、二度とは戻らない。36.3度と36.1度の間の一瞬の温度が、意味であり意志であり意図であり好意であり懸想であり妄念であり情念であり憎悪であって、それをはき違えては、どこにも辿り着かない一生が悲愴なものになる。辿り着かないのは分かりきっている。一体どうして辿り着かなかったけれど、誰と一緒に辿り着かなかったのか。同行者の存在がバッドエンドを凌駕する。

 

明日もバッドエンドとは無縁の、途中。平面にも、なれるはずもない。