色道

昨年、恩師が亡くなった。

 

十年会っていなかった。過ごした時間も短かった。

だから殊更、もったいぶって思い出を語るような立場にはない。

悲しみや痛みの震源地から遠く離れている。

 

でも。それでも揺らいでしまって、死のまわりをぐるぐると回り、

何かを書こうかと思案しては辞めて、という反復を続けている。

希望を抱いて映画の学校へ入ってきた若者に、

だらだらとした酒飲みの時間感覚と、映画には期待できないという深い絶望と、

血を見るような思いでホンを掘り下げるという、ホン書きとしての基本マナーと、

良い立ち飲み屋と、よくわからないピンク映画を教え、

いびつな創作者に仕立て上げた。魔改造した。崖から突き落とした。

マッドサイエンティストのような、無慈悲な人間が他でもない恩師であって、

改造人間としては、憎悪と侮蔑の入り混じった尊敬の念を、

離れてからもずっと抱いてきた。

 

受け取ったいびつな財産を、やぶれかぶれに振り回して、

これからもホンを書き続けるしか、

マッドサイエンティストに報いる道ははない。

 

残念で悔しくて、糸の切れた凧のように、ふらふらとまだ、

やり切れずに、ぐるぐると、反復している。

衰退、のち

平面の女を好きになる男がいる。21世紀という時代に、厄介な現実の問題に対する一つの反応として、絵を好きになる男が生まれた。一人の女が、絵の女がいるから、好きだという感情が生まれる、それは受動的な心の働きではあるけれど、それは何も平面の女に限ったことではない。桜もポピーも紫陽花も、咲くから好かれるのであって、感情より先に花が来るのだった。利根川も荒川も流れるから好かれるのであって、感情より先に川が来るのだった。受動する反応するいつも、そこに確かに何かが誰かがいる限りは。

 

平面ではない女を好きになる男がいる。生身の、と表現されうる誰かを。心を持った自分以外の誰かを。何に価値を置くか、何に重きを置くかと問いを立てるのは、的外れで意味がない。相対性は、零れ落ちる時間を掬うことができない。誰かが、あなたが、相手が、きみが、私と、自分と、いて、希望みたいなものが、あるいは絶望みたいなものが、二人の間に横たわり、一瞬の間に過ぎ去った。受動でも反応でもない、生きた人と人の間にはピリピリと、あるいはゆるゆると、ダラダラと、キリリハララと、現象が起きては消え、二度とは戻らない。36.3度と36.1度の間の一瞬の温度が、意味であり意志であり意図であり好意であり懸想であり妄念であり情念であり憎悪であって、それをはき違えては、どこにも辿り着かない一生が悲愴なものになる。辿り着かないのは分かりきっている。一体どうして辿り着かなかったけれど、誰と一緒に辿り着かなかったのか。同行者の存在がバッドエンドを凌駕する。

 

明日もバッドエンドとは無縁の、途中。平面にも、なれるはずもない。

おかえりブリュノ

聖典」とも呼ぶべき書籍が、誰しも一つや二つは有ると思う。僕にとってそれはミシェル・ウエルベックの『素粒子』で、それまではクラシカルな意味の非モテに属していた僕が、『素粒子』を読んだことによって「ウエルベック的な含みを持った」非モテにダウンコンバートした。もう悩む必要はないのだった。たとえ幼馴染の美少女がカルト組織に取り込まれてセックス中毒になったとしても、ウエルベックを経由しているから「人類全体の衰退」という大局的な視野に立つことができて、相対化して冷静に対処できるのだった。

 

素粒子』の中でも好きな一節がある。理想のセックスパートナーと出逢って一瞬の希望を見出した主人公の中年男・ブリュノが、やがて挫折して精神も減衰し、かつて過ごした精神病院に舞い戻ってくるのだった。

 

"彼は車を出し、高速道路に入った。アントニーの出口から出てヴォーアラン方向に折れた。文部省の精神科クリニックはヴェリエール=ル=ビュイソンから少し離れたところ、ヴェリエールの森のすぐ横にあった。その森の公園はよく覚えていた。ヴィクトール=コンシデラン通りに駐車し、クリニックの柵までの数メートルを歩いていった。受付の看護人は顔見知りだった。彼は言った。「戻ってきました。」”

 

 

 

インターネットにおける非モテは絶滅してしまった。非モテを背負って立っていたテキストサイトが滅びて久しい。無気力の旗印を掲げて異彩を放っていた2ちゃんねるのモテない男性板も過疎地と化した。ゆっくりと着実に、終わったコンテンツになってしまった。今はもう、どこを探しても非モテ以後の非モテ、童貞以後の童貞しかいない。ネットの世代交代と、性志向の多様性が浸透してきた(あくまでネットに限っては)のが主な要因だと思う。セックス階級闘争の敗者であったとしても、ヘテロセクシャルに属している限りはマジョリティーに換算される。遺伝子を残すことに消極的な態度を取ったとしても、それは見かけ上の姿はセクシャルマイノリティーの形状になっている。男には閉経が無いから、非モテ男は自身の生物学上の死に気づくことは無いのだ、この先のインターネットに関しては。残されているのは死後の生活であり、かつて非モテであった存在はそれを享受することが可能になった、自身の死に気づくこともなく。

 

 

最近、2ちゃんねるに出戻りしている。人が居ないから、会心の長文レスをしたためたとしても何の反応も返ってこない。ただ少しばかりの安堵感を、馴染みの精神病院に帰ってきたような、挫折の味がする安堵感を味わいたくてそこに居るのだった。おなじみの景色、ヴェリエールの森のすぐ横。

10年卓上日誌

10年前、童貞を喪失した。相手は堀之内の高級ソープ嬢だった。この世には、テーマパークの各種アトラクションを順路通りにこなしていく人間がいて、一方では、入口で手をこまねいて初めの一歩を踏み出せない人間がいる。流れに乗れなかったという焦りを、ステップアップをすることが出来た側の人間に、正しく伝えることは難しい。だって平気な顔をして「もっと努力すれば良いのに」だとか「もっと頑張らないと」とか、出来ない人間に向かって言えるような人たちに、人生の時計の針を進められないという恐怖感を言語化して伝達できるとは到底思えないから。

 

童貞に限ったことではない。例えば、就業経験の無い実家暮らしの中年にしてみても同じこと。マッチョな視界で物を見ているような人たちには分からない、好き好んでレールから外れる人間なんて居ないということが。進むべき道を見失う、人生のレールから外れてしまう、というのは一種の恐怖体験であって、これを稲川淳二が語ったとしても違和感が無いに違いない。悪夢というのは、ダラダラとした日常の中に存在する。

 

高級ソープの門を叩いたのは、ハロウィンの季節だった。日曜日だった。堀之内までの道すがら、銀柳街仮装行列に行き会ったのを覚えている。当時はコロナなんて無かったから、パレードなんて騒いで当然のはずだったのに(というか、ハロウィンってそういうものだ)、どうしてか無口な行列だった。厳かに、黙々と、仮装した人たちが歩いていた。あれは一体、どういうことだったんだろう。行列に道を塞がれて、僕も立ち尽くしていた。

 

やっと人生の時計を針を進められる。そう思ったら、人生を取り戻したいという欲望が次第に湧いてきた。これからは、遅れを取り戻すように人生に復讐するのだった。もうソープランドに予約をして、童貞喪失の確定演出が出ている、あとは時が経つのをただ待てばいいという状態。その瞬間が待ち遠しくて、川崎競馬場の外周をぐるぐる歩き続けた。多摩川に架かる橋を、何度も往復した。東京へ、川崎へ、行ったり来たり。多摩川はその日、蒼かった。青ではない、「蒼」という色は、きっと童貞の目の結晶体にしか現れない、幼年期の終わりを告げる色だったと思う。

 

 

 

「もう34でしょ? まあ若いって言ったら若いけどさ、そろそろ先のことも考えないとまずいんじゃない?」

 

「まあ、そうですよね」

 

「3年後どうしてるかとか、考えないといけない時期に来てると思うよ。今のままじゃヤバいよ」

 

スーファミのやり込みプレイングの成果を、佐山氏に滔々と語ったら、現実の言葉で現実に引き戻された。まあ確かにね、と言葉の意味に納得はする。だけど、未来設計なんて、元より備わっていない機能なのだった。僕は、大人になれなかった、体ばかり衰退しただけの子どもだった。未来を作れるのは大人だけだ。描いた未来を実現するなどという高等テクニックは、今を積み重ねることしかできない子どもには、話が見えないというか想像もつかないことだった。

 

時間は円環ではないが、直線でもない。今の「先」に未来はないし、今の「前」に過去はないのだった。だからコツさえ掴めば、タイムスリップだってできる。童貞喪失の相手がどうしてるかと気になって、源氏名を調べてみたらまだ店に在籍していた。しかも、あの時のまま、同じ年齢だった。線として時間を考えてはいけない、何故ならソープ嬢が容易にタイムスリップするのがこの世界なのだ。10年前の「先」に僕らはいないのだった。同じように、今の「先」に10年後はない。

 

人生も、セックスも、取り戻せなかった。女のあそこは、いつだって濡れた靴のバリエーションのようなにおいがした。澱んでいて、暗かった。多摩川のように流れることができなかった。流れることができない人間は、点在するしかない。円山町のホテヘル嬢の前に、函館の太った人妻の前に、徳島のマッサージ師の前に、三鷹の歯科衛生士の前に、僕は点在した。何が過去なのかもう分からない。「今」「隣に」「他人が」「いる」というだけ。「今」「他人の」「性器を」「舐めている」というだけ。過去を振り返るというのは、一体何のことだろう。首を動かさずに、じっと暗闇に息をひそめて、それぞれの「今」を思い出すことができるのに。

 

 

 

「深く物事を考える時は、高いところに登ってみるといい」そう教えてくれたのは、大学時代の数学の教授だった。ユークリッド幾何学を、にやにやと楽しそうに説明する変人だった。恩師というような存在ではない、講義を受けるだけの関係。そして、教えてくれたライフハックを、なぜだか分からないけど、忠実に守り続けるだけの関係。人生が停滞したときは教授のことを思い出して、必ず高いところに登るようにしている。今日もそうだった。

 

三軒茶屋キャロットタワー展望室、地上26階。思ったより高かった。夕日の逆光に照らされたパノラマを、人生のセンスが無さそうなおばさんが一眼レフで夢中になって撮っていた。広がっているのは人畜無害な世田谷の街並みのはずなのに、逆光のせいなのか、それともジオラマというもの自体が悪趣味なせいなのか、ゴッサムシティのような犯罪都市に見えてくる。

 

「これからどうしよう」

 

体裁を整えるように問いを立ててみたけど、無意味だと分かっていた。そんなことは考えなくても、答えは出ていた。だって道を踏み外すことが目的で、道を踏み外したから。好き好んでレールを外れたから。目的と切り離せない生活を、ずっとしているのだから。

 

 

展望台を降りて、本屋で手帳を買ってみた。「10年卓上日誌」という、なんと2031年までの予定が書ける手帳(というか、持ち運びができないくらい分厚いので、名前の通り日誌)。タイムスリップしなければ、10年後は44歳になっている。

いまさらウーマロタックル

スーファミ実機でFF6をクリアしてしまった。しまった、というのは、他に片付けるべき雑務、支払い・今後の準備・編集作業・労働行為を有耶無耶にした時間の墓場の上にスーファミの長期プレイングという新しい墓をぶっ立てているからで、物理的にゴミ山の上で一日の大半を過ごし、たまに外に出る用事といえば、まいばすけっとに食料の買い出しに行くか、死んでしまったメダカをアパートの庭に埋めることだけ。思い返せばここ数か月ずっと気を張っていて、それは毎日の電車賃すら事足りないという懐事情から来ていたのだけど、資産のある父親に全て援助してもらって資金の見通しが立ってからは、ぱつりと緊張の糸が切れてしまった。本当に屑。

 

それはそれとして、FF6をクリアした。発売当時は幼稚園か、小学校にあがる頃だったので、世代としては外れている。最初にプレイしたFFは7だし、思い入れがあるのも7で、30も半ばに差し掛かった今でさえ、正史はティファ派かエアリス派かで思い悩み、眠れぬ夜を過ごすことだってある。それに加えて、開発者のヒゲこと坂口博信は僕と同郷で、日立という町を出ているのだけど、魔晄炉が暗い影を落としている故郷というイメージは、かつては銅山として栄えていた日立と輪郭が重なるところがある。それはそれとして、FF6をクリアした。ダーク路線に面舵いっぱいの世界像は、今のろくでもない生活と水が合った。魔導の力を注入されて頭がおかしくなった道化師も、家族を毒殺された侍も、犬を可愛がるしかない殺し屋も、現実の直視を自粛する生活と相性がいい。サーカス感、サーカスの暗い部分とでも言うような世界。三闘神戦で流れる「死闘」という曲も、あやふやな綱渡りをしている曲芸師のような、落ちていく浮遊感とでも言うようなテンションの高い絶望がある。もう語り尽くされているところを掘り下げても仕方がないけれど。反面、ゲームのシステム面はあまり優秀ではない。5が戦略性の宝庫だったからだいぶ格落ちするというか、レベルアップ時の魔石ボーナスくらいしか気を配るような部分がない。世界崩壊前はガウのあばれるに優位性があって、ボス戦でヘイストを配ったり、おにびの火力で雑魚を屠ったりできるけど、崩壊後は魔石で全て事足りてしまう。提示した世界像は良いけれど、広げるだけ広げた風呂敷を回収しきれていないというのは、ドラクエ6にも近いところがある。ドラクエ6も、現実の世界と夢の世界を行き来する、という設定は大好きで小学生の頃はワクワクしたけれど、設定の秀逸さは間延びしたまま放り投げられて、ついに回収されることはなかった。

 

幕切れは大変良いのだけど、ドラクエ6もFF6も。ドラクエ6なんて、ムドー戦後のだらだらした展開とも言えない展開から、最後の最後で、一瞬で引き戻される。城下ではパーティが催されていて、平和一色のムードなのに、階段を一つ隔てた王の間では暗い顔をした男女が涙している、という終わり方。片や幸福な人間がいて、片や不幸な人間がいる。二項対立、夢と現実の対立というテーマを、思い出したように最後の一瞬に突きつけて終わる。映画もゲームも、長編はあっさりと終わらせるのがいい、それも大団円でなければ尚のこと。FF6も、魔法の物語を終わらせる最後の台詞は、一介の賑やかしに過ぎなかった賭博師が言う。そこでぱつりと断絶する、幕が下りる。後を引くのだ、終わりの切れ味が。

終わり良ければ全て良し

原因不明の怪現象に悩まされている。漱石の『それから』を読もうとすると何処にも見当たらない、という現象。『それから』は、あらゆる文庫本の中でも格別に無くなりやすい。高校生の頃に、たまたま手にした『三四郎』に夢中になり、三部作をまず読破しようと、次に買ったのが『それから』だったのだけど、引っ越しの度に紛失し、部屋を整頓していても神隠しのように『それから』だけ消失し、読了するのに足掛け十年以上かかった。いつも、『虞美人草』も『道草』も無事なのに、『それから』だけが忽然と姿を消していた。シュレディンガーの里見美禰子は、本を開いてみない限りは、雲を見ていないかもしれないし、ストレイシープと呟いていないかもしれないけど、『三四郎』の存在が危うくなったことは一度もない。何度も繰り返すけど、『それから』でしか消失は起こらない。

 

新しく買うたびに最初から読んでいたので、代助と書生との会話ばかりが記憶に残っている。実家へ赴いて金の無心をするくだりも、空で言えるくらいに覚えてしまった。肝心の、全てを失い全てを手に入れた代助が、心中の道行のように歩み始めるラストに関しては、あいまいに輪郭がぼやけている。漱石らしくないような、感覚的で熱っぽい筆致で書かれていたような気がする。

 

 

 

赤羽へ向かう電車の中で、シェイクスピアを読んでいた。軽いものを読みたいという理由で、「から騒ぎ」を。この戯曲のウイットに富んだ会話の応酬は、伝説的な作家の産物と納得するようなものではあるけれど、ウイット一本鎗の感もある。ユーモアなんて粗製乱造できるもので、ダイアローグの本当の奥深さはそこには無い。そこまで考えてみて、「明治だ」と思った。金を借りるために、電車に乗ったのだった。借金の肩代わりをしてもらう、しかも十万や二十万の金額ではない、そんな尻拭いを頼むために東京都北区赤羽に向かう道中なのだった。まるで馬鹿げた、明治の高等遊民だった。シェイクスピアを読みながら、行くのだった。金の無心に。

 

消費者金融からつまんでいると正直に告白したら、父は呆れかえっていた。

 

「ここまで馬鹿とは思わなかった。サラ金なんて、返せないように出来てるんだよ。利子を返しても返しても、残金が減らないように。そういうシステムなんだよ」

 

「そうだね。自分で何とかしようと、してたんだけど」

 

「無理だろ、馬鹿だな」

 

父は会社の社長で、富裕層に属していた。スマホをいじって、「今、送金したから」と事も無げに言った。口座を確認したら、〇百万入ってた。ずっと抱えていた借金問題が、ものの数秒で解決してしまった、還暦を過ぎた親に尻拭いしてもらって。電車賃が無いから新宿から歩いたりだとか、交番へ行ってお金を貸して貰えないかと頼んだりとか(先月、やった)、ライターが無い時に道に落ちているタバコから火を貰ったりだとか、そういった金の無い日々の間違いの喜劇が、走馬灯のように頭を駆け巡った。

 

病気のメダカが心配だからと言い訳して、逃げるように実家を出た。外はまだ明るかった。春が来るのかもしれなかったし、まだ冬が続くのかもしれなかった。どちらに転ぶにせよ、どうでもよかった。金銭の問題が解決したとしても、俯いた首の角度は習い性になっていて治らない。結局のところ、春が来るにせよ、惨めに生きるしかないと分かっていた。

 

 

家に帰ってきて、『それから』を探した。もちろん、見つからなかった。

失われた未来を求めて

飼っているメダカが死にかけている。というか、死んでしまった、二匹。あと八匹生き残っている中でも、三匹がおそらく「水カビ病」という病に冒されていて、体表面に白いワタのような病巣ができ、フラフラと力なく泳いでいる。危険域にいる三匹は、塩をまぶした別の水に隔離して(塩浴というらしい。自然治癒力を高める効果がある)、熱帯魚店で買ってきたメチレンブルーという治癒薬で薬浴させている。メチレンブルーというのは、絵具のように青い液体なのだけど、光と反応して殺菌効果を生む。水カビ病の治療薬としてネットで推奨されていたので、あまり知識もなく買って、やぶれかぶれで運用している。何か手を打たないと、死んでしまうから、やぶれかぶれでも、とりあえずやってみるという現状。今夜が山かもしれない。明日、目が覚めて、ぷかぷかと死体が浮かんでいるビジョンが目の前を掠めて、かと言ってどうしようもない。世話を怠けていたのが原因かもしれない。水質悪化が、弱い命にとって死神になってしまった。命を預かる自覚がない、と、死んでしまった二匹を埋める穴を掘りながら、ぼんやりと思っていた。

 

メダカを飼うつもりなんて、元より無かった。仕事先で水槽セットと共に譲ってもらって、というか押し付けられて、なし崩し的に飼うことになった。昔、熱帯魚を、ポリプテルスという古代魚を飼っていたことがあり、メダカは餌として、ポリプテルスにあげていた。力いっぱいで飼うような魚ではない、メダカなんて。所詮、熱帯魚店でも肉食魚の餌として売られている魚なのだった。本当は、そんなレッテルもジャンル分けも、僕らの関係にとってはどうでもいいことなのに。顔を突き合わせて、一つ所で生活していれば、それは共同生活者でしかなく、そういった関係性に対して、存在のレアリティーといったことは意味を為さなかった。僕にもメダカにも、今、ここが全てで、それ以外の諸事情については何ら感知していない。家族も僕は、メダカが、全てであって、メダカも僕に対してしか、未来の可能性を見出していないのだった。

 

厄介な存在を抱えてしまった。人生の道連れが、口をパクパクすることしかできない水中生物になってしまった。明日を、朝を、迎えるのが怖くて、日記を書いている。ぷかぷかとした水死体が、夜の先にあるかもしれなくて、それが怖いのだった。