終わり良ければ全て良し

原因不明の怪現象に悩まされている。漱石の『それから』を読もうとすると何処にも見当たらない、という現象。『それから』は、あらゆる文庫本の中でも格別に無くなりやすい。高校生の頃に、たまたま手にした『三四郎』に夢中になり、三部作をまず読破しようと、次に買ったのが『それから』だったのだけど、引っ越しの度に紛失し、部屋を整頓していても神隠しのように『それから』だけ消失し、読了するのに足掛け十年以上かかった。いつも、『虞美人草』も『道草』も無事なのに、『それから』だけが忽然と姿を消していた。シュレディンガーの里見美禰子は、本を開いてみない限りは、雲を見ていないかもしれないし、ストレイシープと呟いていないかもしれないけど、『三四郎』の存在が危うくなったことは一度もない。何度も繰り返すけど、『それから』でしか消失は起こらない。

 

新しく買うたびに最初から読んでいたので、代助と書生との会話ばかりが記憶に残っている。実家へ赴いて金の無心をするくだりも、空で言えるくらいに覚えてしまった。肝心の、全てを失い全てを手に入れた代助が、心中の道行のように歩み始めるラストに関しては、あいまいに輪郭がぼやけている。漱石らしくないような、感覚的で熱っぽい筆致で書かれていたような気がする。

 

 

 

赤羽へ向かう電車の中で、シェイクスピアを読んでいた。軽いものを読みたいという理由で、「から騒ぎ」を。この戯曲のウイットに富んだ会話の応酬は、伝説的な作家の産物と納得するようなものではあるけれど、ウイット一本鎗の感もある。ユーモアなんて粗製乱造できるもので、ダイアローグの本当の奥深さはそこには無い。そこまで考えてみて、「明治だ」と思った。金を借りるために、電車に乗ったのだった。借金の肩代わりをしてもらう、しかも十万や二十万の金額ではない、そんな尻拭いを頼むために東京都北区赤羽に向かう道中なのだった。まるで馬鹿げた、明治の高等遊民だった。シェイクスピアを読みながら、行くのだった。金の無心に。

 

消費者金融からつまんでいると正直に告白したら、父は呆れかえっていた。

 

「ここまで馬鹿とは思わなかった。サラ金なんて、返せないように出来てるんだよ。利子を返しても返しても、残金が減らないように。そういうシステムなんだよ」

 

「そうだね。自分で何とかしようと、してたんだけど」

 

「無理だろ、馬鹿だな」

 

父は会社の社長で、富裕層に属していた。スマホをいじって、「今、送金したから」と事も無げに言った。口座を確認したら、〇百万入ってた。ずっと抱えていた借金問題が、ものの数秒で解決してしまった、還暦を過ぎた親に尻拭いしてもらって。電車賃が無いから新宿から歩いたりだとか、交番へ行ってお金を貸して貰えないかと頼んだりとか(先月、やった)、ライターが無い時に道に落ちているタバコから火を貰ったりだとか、そういった金の無い日々の間違いの喜劇が、走馬灯のように頭を駆け巡った。

 

病気のメダカが心配だからと言い訳して、逃げるように実家を出た。外はまだ明るかった。春が来るのかもしれなかったし、まだ冬が続くのかもしれなかった。どちらに転ぶにせよ、どうでもよかった。金銭の問題が解決したとしても、俯いた首の角度は習い性になっていて治らない。結局のところ、春が来るにせよ、惨めに生きるしかないと分かっていた。

 

 

家に帰ってきて、『それから』を探した。もちろん、見つからなかった。