『ドライブ・マイ・カー』のこと(ネタばれあり)

一度も飲んだことが無い未知の酒を、ちびちびと飲み続けているような感覚があった。あるいは、葉っぱでも吸っているような(吸ったこと無いけど)静かで、それでいて好奇心が満たされていく感覚があった。静謐と充足は両立し得る。現に、そういった物がこの世にはあるから。でも、映画には無かった。静かな語り口は、映画の強度を多少なり弱めるはずだった。繊細な味覚で出汁の旨味を味わうのが、この国で映画表現が踏襲すべきルールだった。今や、それは過去のものになった。強度の高い静かな悦楽が、映画の名を持って産み落とされたからだ。

 

成り代わりの物語である。演出家の家福は、妻と姦通した若い役者に、自身が演じることもできたワーニャの役を委ねた。死んだ女を介して、二人の男が引き合わされる。寝物語でしか物語を語れない女だから、交わった男の数だけ、物語を残して逝った。家福と若い役者は、ただの運命の流れの中で再びめぐり逢い、答え合わせをする。断片を紡ぎ合わせて猥雑な完成品を、死んだ女が残した暴力的でエロティックな一片の物語を、共同作業として産む。若い役者がやがて役を降り、お鉢が回ってくる、かつての夫のもとに。あるいは、ドライバーの女は、運転手の代行をし、死んだ妻の(あるいは死んだ娘の)代役を演じることになる。代役は、舞台に幕が下りるまで演じ続けられることになる。

 

言うまでもなく、車の物語である。移動手段であり、人と人が言葉を交わす空間であり、社会の表出であり、社会に点打たれた私的な存在でもある。猛スピードで目まぐるしく動く機械は全体としては人間社会を表しているけれど、耳をそばだてて、あるいは注視してみれば、機械の所有者ひとりひとりの極私的な空間が広がっている。家福にとって車は、生きている妻、あるいは死んでいる妻との、リズムやテンポの制御された、極度に制限された会話を行う場でしかなかった。生の女と、妻と向き合うこともなく、それでいて妻との絆の証であり、愛情のやり取りでもあった、テープとの会話。その会話が、空間が、乱された。私的な空間に第三者が闖入した。以前のようにテープの声と問答していても、それを聞いている人間がいる。閉じた幕の裏で繰り広げられていた物語に、今や観客がいる。その観客の目には、不可思議で滑稽なものに、かつての夫婦の姿は映るかもしれない。乱れたリズムはしかし、波打った水面が落ち着きを取り戻すように、静かで美しいエンジンの鼓動を再び獲得するのだった。生身の男と生身の女が話し、破調が起き、そして乱れた美しさが心地良いのだった。

 

人と人の境目が無くなるのが、演劇である、あるいは車である。家福の演劇、多言語を用いた演劇作品においては、台詞は単なるきっかけには到底留まりえない。自己がいて、他者がいるという明確な線引きは存在しえない。他者の言葉は自己の言葉に先行しているけれど、時間軸上で先行しているだけであって、因果も、道具としての意味も、存在しえない。(自己)が話している言葉は、(他者)が話している言葉である。あるいは、姦通した男と、姦通された男が、後部座席で相まみえる場面においては、セックスを共有しているから(自己)が(他者)であり、(他者)が(自己)である。もう境目が無い。死んだ女と寝た限りにおいて、二人の男は同一である。

 

劇中劇「ワーニャ伯父さん」は、日本語話者のワーニャの肩に、(韓国語圏の)唖者ソーニャが手を回し、手話で物語る、静かで恍惚的な会話劇で幕切れる。ソーニャの手話は、ワーニャの胸元で、ワーニャと同じ向きを向いて語られるから、つまり逆手話である。つまり、語っている人間と、語られている人間が同一である。つまり、ここに映っているのはカットバックのバリエーションの一つ(“切り返しのないカットバック”)である。成り代わりが、劇が、人間の融合が、男と女の会話が、親と娘の関係が、静かに、それでいて恍惚的に終わりを迎えるのだった。映画が終わり、そして映画が続くのだった。ドライブは続く。高速度で動く車は、(ハンドルを切り損なえば、人間生命を奪う凶器になるけれど)、静かで私的な空間を産み出してくれる。この映画は、始まりから終わりまで徹頭徹尾、“車”を堪能する物語である。