ちゃんと会って、同じ時間を過ごしたいの♪

ツルゲーネフの「はつ恋」を古本屋で最近見かけないと思ったら、青空文庫になっていた。考えてみれば薄い本なので、電子化向きの小説だった。これでもうブックオフの外国人作家コーナーでツルゲーネフの名前を見ることもなくなるし、「ていうか、はつ恋以外何書いたんだっけ?」と疑問を持つこともなくなる。ロシア人作家と言えば、絶望で全てを蹂躙していくスタイルの大作家が他にいて、ツルゲーネフの存在感は少し薄い。優等生の良い子ちゃんというか、ナイーブな作家という偏見をなんとなく持っている。本当は、ジナイーダなんて根っからの「オタサーの姫」だし、その姫に対して男どもはやたらと憎悪の混じった複雑な愛情を向けているし、「はつ恋」は決して性格の良い小説ではない。むしろ、積極的に「オタサーの姫」成分を取り込みたいという歪んだ人間にとっては、村上かつらの「サユリ1号」と並んで座右に置くべき(青空文庫になったけど)書籍である。

 

「はつ恋」にはルーシンという名の皮肉屋の医者が登場する。ジナイーダを囲む男の一人なのだが、ジナイーダを盲目的に信仰するというより、他愛もない小娘だと侮蔑しつつ同時に愛してもいるという、素直になれない中年男の成れの果てといった人物だ。そして主人公の見立てでは、このルーシンという男がある意味では、ジナイーダの最大の理解者なのだった。脇役ではあるが、何か秘密の鍵を握っているような存在感がある。「はつ恋」を「はつ恋」たらしめている。初見の頃から、片思い中年はかくあるべき、と規範のように思ってきた。だけど最近は、少しだけ意見が変わってきている。

 

ある人にとって特別な存在でありたい、というのは自然な欲求で、押し殺してひた隠しにするような感情ではない。たとえ自分が中年男で、相手が少女であっても。ルーシンのことはずっと好ましく思っているけれど、ジナイーダを独占所有したいという行動理念に従って動いているくせに、ついにその事実に気づくことなく、愛憎というフィクションを信じ込んでしまったのは、愚かで情けなく、知的な営みからは程遠い。愛憎を超えた目線で、オタサーの姫を見るべきだった。それでこそ、ジナイーダの真の理解者になれた。あるいは、もっと大きな枠組みでの、このウンコワールドの理解者になれたと思う。

 

文章の回り道をして、ぐるぐる回っている。何が言いたいかというと、これを書いているのが朝で、一人の中年男に新しい一日が訪れたということです。